◆ プロローグ-3話「ほつれ」
◆ プロローグ-3話「ほつれ」
デジャヴという言葉を当てはめてしまえば、それで済むのかもしれない。
「前にも見た気がする光景」。
心理学の本にも、哲学の本にも、それっぽい説明はいくらでも載っている。
昨日の夜のあれも、そういう分類に押し込んでしまえば、きっと話は簡単になる。
けれど、どうにもその枠に収まらない気がしていた。
普通、デジャヴは“起こった瞬間”に追いついてくる。
会話の途中でふいに「あれ、この流れ知ってる」と思ったり、
角を曲がった先の風景を見てから「前にもここを歩いた気がする」と思ったり。
つまり、出来事のあとに名前が追いついてくる。
でも昨日のぼくは、まだ牛乳パックにも触っていないのに、「こぼす」場面を知っていた。
あれは、起こった出来事にラベルを貼る感覚じゃなかった。
これから起こる出来事のほうが、先にこちらへ寄ってきたような、そんな妙な順番のズレだった。
ほんの一瞬のことなのに、思い返すと、そこだけ時間の縫い目がほつれていたように思える。
そのほつれ目に指先が触れたような、冷たい感触がまだ残っている。
「じゃあ何だよ」
窓の外の景色に問いかける。
もちろん返事なんて返ってこない。
ただ、ガラス越しの景色が、いつもよりわずかに“平ら”に見えた。
奥行きが一段だけ削られたような、そんな違和感。
まるで、世界の厚みがほんの少しだけ薄くなったみたいだった。
予知夢、みたいなものだろうか。
その言葉を頭に浮かべてみて、すぐに苦笑する。
二十歳の大学生が真顔で「予知夢がさ」とか言い出したら、友達は確実に距離を取る。
それに、“未来を見た”という感じとも違う。
もっと雑で、もっと曖昧で、もっと一瞬だった。
時間の向きがふっと曖昧になって、
前から来るはずの出来事と、後ろから響いてくる記憶が、
ほんの一瞬だけ重なったような。
その重なりは、説明しようとすると指の間からこぼれ落ちる砂みたいに、形を保ってくれない。
「起こったことの落とし所を考えろ」
昨日の授業で教授が言っていた言葉を思い出す。
現象をそのまま受け入れるんじゃなくて、自分の中でどこに置くのかを決めろ、という話だった。
あのときは、ただの講義の一部として聞き流した言葉だったのに、今はやけに耳に残る。
じゃあ、昨日のあれを、ぼくはどこに置けばいいんだろう。
単なる脳のノイズとして処理してしまうのか。
それとも、「世界のほうが一瞬だけ巻き戻って、同じ溝を二回なぞった」とでも考えるのか。
そんな馬鹿げた考えを浮かべた、そのときだった。
視界の端で、違和感が走る。
電車は変わらず前に進んでいる。
レールの継ぎ目の振動も、吊り革の揺れも、すべて連続している。
なのに、窓の外の景色だけが——
ほんの一瞬だけ、逆に滑った。
流れていくはずの建物の列が、
一コマぶんだけ、元の位置へ戻る。
戻って、
何事もなかったように、また前へ流れ始める。
一瞬だった。
瞬きをしたかどうかも分からないほどの、短い時間。
だが、確かに見た。
さっき通り過ぎたはずの電柱が、
もう一度、同じ角度で視界を横切った。
「……は?」
声が漏れる。
周囲は変わらない。
スマホを見ている人、うつむいている人、眠っている人。
誰一人として、顔を上げない。
今のを見たのは、ぼくだけだった。
心臓が一拍、遅れて強く鳴る。
さっき、自分で考えたばかりのことが、
そのまま現実になったような気がした。
——世界が巻き戻った。
そんなはずはない。
そう否定しようとする思考が、うまく噛み合わない。
言葉だけが浮かんで、意味が追いついてこない。
電車は何事もなかったように走り続けている。
景色も、もう普通に流れている。
さっきの一瞬だけが、そこから切り離されたみたいに、現実の外側に取り残されている。
胸の奥のざらつきが、一段深くなる。
落とし所なんて、まだ決められそうにない。
それでも、ひとつだけ分かったことがある。
昨日のあれは、「ただのデジャヴ」なんかじゃない。
ぼくは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
そこに映っているのは、確かに自分のはずなのに、
ほんのわずかだけ、焦点が合っていない気がした。
まるで、今ここにいる自分と、
どこか別の位置にいる自分とが、
ぴったり重なりきれていないみたいに。
電車は、変わらず前へ進んでいる。
けれど、その「前」がどこなのか、
ぼくにはもう、少しだけ分からなくなっていた。
∞の「となり」第2話「ずれ」
◆ プロローグ-第2話
通学電車の窓に映る自分の顔は、いつも通りだった。
寝不足気味で、少しむくんでいて、特に変わったところはない。
昨日のことも、ほとんど気にしていなかった。
コップを落としたくらい、よくある話だ。
あの瞬間の妙な感覚も、寝不足のせいだと言われれば納得できる程度のものだった。
車内が小さく揺れる。
その揺れも、いつもの朝の揺れだと思った。
けれど、視界の端で誰かのスマホが手から滑り落ちる光景が、
現実よりわずかに早く頭の中で鳴った気がした。
ほんの一瞬だけ。
気のせいだ、とすぐに片づける。
ただ、胸の奥に小さな波紋が広がった。
その波紋が、昨日の夜の“あれ”と同じ位置に触れた気がした。
続けて流れた車内アナウンスの最初の一言が、
耳に届く前に内容ごと分かってしまったような気がした。
だが、毎日同じ電車に乗っていれば、アナウンスの順番くらい自然と覚えるものだ。
そう思えば、特に不思議でもない。
吊り革を握り直す。
その高さが、昨日よりほんの少しだけ高い気がした。
気のせいだろう。
昨日のぼくが少し背筋を伸ばしていただけかもしれない。
「そう思うことにした」
だが、手のひらに残る“昨日の高さ”の感触が、
妙に生々しく残っていた。
まるで、昨日の手がまだそこに貼りついているみたいに。
「この場面、前にも——」
そこまで考えて、思考がふっと止まった。
前にも、というなら、いつのことだろう。
昨日かもしれないし、もっと前かもしれない。
ただの気のせいだろう、と自分に言い聞かせる。
昨日の“デジャヴ?”という呟きが、喉の奥で小さく反響したが、
それもすぐに消えた。
スマホの画面には、今日の日付と曜日が表示されている。
疑いようもなく「今日」だ。
なのに、その数字の並びが、ほんの少しだけ借り物みたいに見えた。
理由は分からない。ただ、そう感じただけだ。
胸の奥には、別の「今日」の手触りが、かすかに残っている気がした。
そこでは、コップを落とした角度が少し違っていて、
電車の揺れも少し違っていて、
ぼくが呟いた言葉も少し違っていたような気がする。
でも、それも気のせいだろう。
そう思えば、そう思える程度の曖昧さだった。
電車がトンネルに入る。
窓ガラスに映る自分の輪郭が、ほんの一瞬だけ遅れて揺れた。
車内の照明が反射しただけだ、と片づける。
そう片づければ、何でも説明できる。
ただ、揺れた“あと”の輪郭が、
ほんのわずかに別の位置に残っていた気がした。
その“残り”が、昨日の夜の残像と同じ温度をしていた。
まるで、一度だけ針が跳ねて、
隣の溝をほんの数秒ぶんなぞってしまったレコードを、
少し遅れて聴かされているような感じ。
その比喩が頭に浮かんだ瞬間、
胸の奥がひやりとした。
昨日の夜、同じような“跳ね”を感じた気がしたから。
でも、電車はいつも通りの速度で走っていた。
ぼくも、いつも通り大学へ向かっていた。
ただ、
“いつも通り”という言葉だけが、
空いた席に深く腰掛けたぼくの胸の奥でわずかに浮いていた。
浮いたまま、どこにも着地しないまま、
そのまま揺れていた。
その“いつも”が、どれのことなのか分からないまま。
「デジャヴ」という言葉だけが遅れてこだました。
∞の「となり」第1話「揺れ」
プロローグ-第1話
——このあと、落とす。
理由もなく、そう確信した。
手の中のコップはまだしっかりと握られている。
それなのに、床にぶつかって砕ける光景が、先に頭の中に浮かんだ。
白い液体が四方に散る軌道。
破片が跳ねる位置。
それらが、現実よりも一歩早く、鮮明に思い描かれる。
おかしい、と考えるよりも先に——
手から力が抜けた。
乾いた音が床に響く。
ワンテンポ遅れて、牛乳が広がっていく。
まるで、さっき見た通りに。
「……デジャヴ?」
口に出した声は、自分のもののはずなのに、少しだけ遠くで鳴った。
耳の奥ではなく、外側で反響しているような、不自然な位置。
しゃがみ込み、タオルを取りに行く。
その動作ひとつひとつが、ほんのわずかに遅れてついてくる。
拭き取りながら考える。
さっき「落とす」と思ったとき、ぼくはまだコップを落としていなかった。
いや、それどころか——確かに、「これから落とす」と知っていた。
予測じゃない。
偶然でもない。
“知っていた”。
その感覚は、今が初めてじゃない。
山下教授の講義が終わった瞬間から、ずっと続いている。
黒板の前で、教授がチョークを置いた。
その何でもない動作が、ほんの一瞬だけ二重に見えた。
残像ではない。
もう一つの動きが、わずかに重なっていた。
まばたきをしたときには元に戻っていたが、
その揺れだけが胸の奥に引っかかる。
前の席の杉山が椅子を引く。
背中を伸ばし、軽く息を吐く。
その一連の動作が、いつもよりほんの少しだけ遅れて見えた。
距離がずれているのか、時間がずれているのか、判断がつかない。
ただ、“ぴったりではない”。
立ち上がろうとした瞬間、視界がゆっくりと波打った。
めまいというほど急激ではない。
世界のほうが、ほんのわずかに遅れてついてくるような、柔らかい遅延。
足の裏に伝わる床の感触も同じだった。
踏みしめてから、遅れて「触れている」と理解する。
音もそうだ。
周囲のざわめきは普通に聞こえる。
だが、その届き方だけが、わずかにずれている。
「北山、行くぞ」
杉山が半身だけ振り返る。
その声が、ほんの少し遅れて耳に届いた。
わずかすぎて、意識しなければ気づかない程度の差。
「うん、今行く」
そう返した自分の声もまた、喉ではなく、少し外側で鳴っているように感じられた。
違和感は、はっきりとは掴めない。
だが確実に、何かが噛み合っていない。
階段を下り、校門を抜ける。
歩くたびに、靴底が地面に触れる感覚が、ほんのわずかに遅れる。
電車に乗ると、揺れが身体に伝わる。
その揺れは、いつもより“丸い”。
角が取れたような、不自然な柔らかさ。
吊り革を握ると、昨日よりほんの少し高い気がした。
だが、確かめる方法はない。
すべてが「気のせい」で片付けられる程度のズレ。
それが逆に、気持ち悪かった。
家に着くころには、感覚はほとんど消えていた。
ただ、胸の奥に薄いざらつきだけが残っている。
消えていない。
ずっと、そこにある。
キッチンに立ち、コップを手に取る。
冷蔵庫のドアに手をかけた、その瞬間だった。
胸の奥に、言葉よりも先に感覚が落ちてくる。
——このあと、落とす。
理解した瞬間、未来が先に流れ込んできた。
そして、現実がそれをなぞる。
ぼくはただ、そのあとを追いかけるしかなかった。
拭き終えた床を見つめながら、しばらく動けなかった。
静かすぎる。
さっきまで聞こえていたはずの生活音が、どこか遠くに押しやられている。
耳鳴りのような、わずかな空白。
その中で、不意に思う。
また来る。
理由は分からない。
だが、それだけは分かる。
ぼくは立ち上がり、流しに手をついた。
そのときだった。
視界の端で、何かが動いた。
反射的に顔を上げる。
キッチンの壁。
何もないはずのそこに——
一瞬だけ、“自分”が立っていた。
同じ姿勢で、同じように流しに手をついたまま、こちらを見ている。
ほんのわずかだけ、“位置”がずれていた。
次の瞬間、消えた。
「……は?」
声が出る。
だが、その声もまた、わずかに遅れて耳に届いた。
今のは、見間違いじゃない。
残像でもない。
——重なった。
そう理解した瞬間、背中に冷たいものが走る。
胸の奥のざらつきが、一段深くなる。
ぼくはゆっくりと息を吐いた。
片付けを終え、シャワーを浴び、ベッドに横になる。
眠気はすぐにやってきた。
意識が沈む直前、今日の教室の光景がふっと浮かんだ。
教授の声、ざわめき、杉山の背中。
飛び散る牛乳。
そのどれもが、ほんの少しだけ遠い。
翌朝、目が覚めたとき、世界は“普通”に戻っていた。
少なくとも、そう思えた。
∞の「となり」ぼくはもう、戻れない? あらすじ
∞の「となり」ぼくはもう、戻れない?
「カクヨム」に連載中です。
あらすじ
ある日、世界がほんの少しだけズレた。
友人の言葉が噛み合わない。家族の記憶も、どこか違う。
昨日までの当たり前が、静かに崩れていく。
「世界は無限に並んでいる」
そう語った教授の言葉が、現実になる。
気づいたときには遅かった。
ぼくは“別の世界の自分”に押し出されていた。
元の場所には戻れない。
ズレた世界を渡りながら、ぼくは選び続ける。
——これは、日常のすぐ隣で起きている、喪失の物語。